Tuesday, May 7, 2013

「部分最適化」と「責任」


池田信夫氏との会話:(10年前)

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ikedanob 氏: (10年前)
先日、無線機器メーカーの会合で電波政策がいかにおかしいか話したら、ある大
手メーカーの人が「私も個人的には同感だ。地域防災無線なんて、同じ地域に国
と県と市町村の無線が重複して、それぞれ別の帯域を取っている。ところが、総
務省は今、この帯域を整理しないで丸ごと『デジタル化』しようとしている。納
税者としては無駄だと思うのだが、当社の営業としては、こういう商売はもうけ
やすいので・・・」
老朽化しているのは「アーキテクチャ」なのに、伝送技術を「デジタル化」する
ことによって問題を解決しようとする発想は、デジタル放送と同じです。しかし
結果的には、こういうふうに無意味なアップグレードをすると、かえって償却す
るまで設備をもたせることになり、問題が先送りされてしまう。「部分最適化」
のパラドックスは、日本全体に蔓延しているようです。

「部分最適化」の典型的な弊害は、「責任」が見えにくくなる事です。
本来、bureaucratization というのは、「知的秀才」が得意とするところの
大脳生理学的に言えば"左脳辺縁系"に深くかかわる部位で、「責任」という
キーワードはまさにこの部位に入ってくるわけですが、
「部分最適化」の追求によって、責任の所在が「部分的には」最適化
されるものの全体的に見れば全く以って「見当違いなところ」に
配備(デプロイ?)されてしまいます。
#「手続き」の中に責任がカプセル化されデプロイされると言っても良い。

マスコミで、「自己責任」とか「責任逃れ」とかいった論調がある場合、
その当事者である人たちの頭の中ではちゃんと「責任」はとられています。
ただ、全体的に見ると非常に「責任がとられていない」ように見え、
あたかも解せない行動に見えるだけです。
当事者の方々が、一番 *責任* をとっていて、マスコミは「言いっぱなし」
の *無責任* な存在であり、またそうである"べき"なのです。:-)

余談:以前、「知的秀才」「街の俊才」の対比をしましたが、もう少し
わかりやすい例を挙げます。「街の俊才と知的俊才」の大きな差は、
* 「知的秀才」:
  "数学は暗記である"
  "プログラムに必要なのは手続きである"
* 「街の俊才」
  "数学は芸術である"
  "プログラムは人間活動同様きわめてオブジェクト指向的なものである"
・・といったような、「回答の違い」によってある程度の見当がつきます

ikedanob氏
部分最適化の問題は、コンピュータ業界でちょっと前に流行したニューラル・ネッ
トとか遺伝的アルゴリズムのテーマなので、脳と関係あるかもしれませんね。
進化の中でも、部分最適化によって種が滅亡することがきわめて多いので、それ
を避けるメカニズムが発達しています。遺伝的アルゴリズムは、交差による「小
進化」と突然変異による「大進化」を組み合わせるもので、部分最適化の落とし
穴にはまったときは、(既存の集団にとっては)不合理な行動をする「異端児」
がいろいろ出てくることが、結果的には種の保存に貢献します。
同じような話は、ニューラル・ネットでもあり、simulated annealingというア
ルゴリズムは、最初にシステム全体に大きな「ゆらぎ」を与えてグローバルな解
をさがし、徐々にエネルギーを下げて最適化を行うものです。徹夜で頭がボーッ
としたとき、眠るとすっきりするのは、ニューロンが局所的に興奮している状態
に睡眠によって「ゆらぎ」を与えてリラックスさせるためだと考えられています。
経済学でこれを応用したのが、有名なKandori-Mailath-Robのアルゴリズムで、
これは「突然変異」を導入することによって落とし穴を脱却するものです。この
あとも同様の研究はいろいろ行われ、集団をモジュールにわけて部分的な改革が
起こりやすくする(Ellison)とか、メンバーに集団を退出するオプションを与え
る(松島)などの方法が提案されています。
逆にいえば、「メンバーが合理的で、均質で、システム全体がズルズルとつながっ
ていて、そこから退出する自由のない組織」ほど、部分最適化に落ち込みやすい
わけです。


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